みき通信 第71号 東日本大震災7年 あの場所はいま


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5月27日に宮城県南三陸町・女川町・石巻市・東松島市、28日に福島県南相馬市・浪江町・双葉町に行ってきました。

東日本大震災から7年、震災後の2011年5月に石巻市に初めて泥だしの支援に、その後も支援に行くたびに現地の様子の変化、時間が止まったままの場所と真新しい時間が流れる街、いろいろな意味で驚きます。

命を懸け最後まで避難を呼びかけ、鉄骨だけが残っていた南三陸町の防災センター。危険防止のため錆止めの塗装が施される中、周辺は見上げられるほどの陸地をかさ上げする復興工事が進んでいました。JR仙石線の旧野蒜駅。駅舎はコンビニが併設する伝承館となり、残されたホーム分だけ線路も残されました。

大震災を受け、日本全体で自助・共助・公助と災害時の対応を見直しています。災害時の対応だけでなく、様々な災害を想定し復興も見据えた自治体の考えを持つことが、復興への早道に繋がるのではないでしょうか。

福島第一原発から20キロ圏内の避難指示区域 南相馬市(小高地区)には、何段にも積み上げられた除染土の仮置き場が数百メートルも続きます。浪江町は、牧畜が盛んだった地域であり殺処分を望まない牧場主が「牛たちは事故を生き抜き貴重な生きた資料。その調査をきちんと進め将来に大きな資産を残すこともできる。さらに、エネルギー問題は福島だけではなく日本全体の、世界の問題で、考えるきっかけにしてほしい。それらが復興の希望につながる」と牛の命のある限り「希望の牧場・ふくしま」として現在も飼育されていました。車の窓を開けることも許可されず車での通り抜けしか許可されていない双葉町国道6号線。車内の放射線量は10.20ミリシーベルトにもなりました。

7年という長期間にわたる避難生活の中で、転居先で生活基盤をつくられた方、戻らない方、戻れない方たちも多く、それぞれ事情も違い、原発と放射線の見えない恐怖も続いています。事故収束も見られず、事故再発防止策も構築されず、こんな状況の中、原発の再稼働、原発を海外に輸出することなど許されるわけがありません。